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青年が他人を殺す心理

青年が他人を殺す、その原因は父親への憎しみである。

多くの場合、父親への憎しみは、父親本人か、もしくは庇ってあげなかったその家族への復讐となって現れる。

しかし、父親を憎まないように徹底的に教育されていた場合、本当は父親に対して憎しみを抱いているにもかかわらず、それを父親にぶつけることができなくなる。彼が少しでも憎しみのそぶりをみせるだけで、予定調和的に父親からそれを封じ込められてしまうのである。本当は、そうやって、小さなガス抜きをすることが人の心の成長にとって、とても大切なことなのだが・・・。

そして、心の中に憎しみが蓄積していく、日一日と。

親子関係というのはやっかいだ。なぜか? 死が2人を分かつまで関係が続くからだ。

彼は絶望するだろう。「これが一生続くのか。」と。

そこで彼は考える。「こいつ(父)をギャフンと言わせる方法はないものだろうか?」と。

本当は、ここで父親に暴力をふるったりするのが普通であるが、反抗しないように教育が徹底されていると無意識にそういう考えは排除される。

そして、こう考える。「俺が犯罪を犯せば、社会的にこいつ(父親)を苦しめることができる。」と。

彼らは、自分自身の不利益については一切考慮しない。なぜなら、父親から徹底的に「お前はだめなやつだ。」と言われ続け、その結果、自己無価値感がとても強くなっているからだ。本当は、父親が強烈な劣等感を抱いており、それを子どもに投影させているだけなのだが・・・。

そして、他人に対する不利益(そして、その究極が他人の命)に対しての考慮も欠如している。なぜなら、彼らは心のエネルギーのほとんどすべてを父親からの心的虐待に対する心の防御に使っているからだ。他人に対する思いやりというのは、まず、身近な人に対する信頼関係あってのものだ。彼にはそれがほとんどない。「身近な人を信頼せずに他人を信頼しろ。」 無理な話だろう。

「なぜ、そんなに簡単に人を殺せるのだ。」

小さい頃からの訓練である。「人を殺す訓練?」 最近ではゲームで可能である。ゲームはこういう殺人事件の原因なのではなく、そのしきいを低くする役割を果たしている。

また、小さな、自分より弱い虫や動物を殺すことにより、やすらぎを得るものもいる。いわゆるいじめの擬似体験である。彼らはそうすることにより自らの心が癒されるのに気づき、それを習慣化していくのである。これは何も他の人よりも異常だからそう感じているのではない。芸をする猿や、洗濯ばさみを乳首にはさんで痛がっている芸人を見て笑っている人は、まさにそういう心理状態にあるのではないかと私は思っている。

このようにして、彼らは「生き物を殺すと不快に感じる」というしきいを軽々と超えてしまうまでに感覚を無痛化し、そして、父親に対する憎しみを蓄積しているのだ。

彼は、とにかく、父親に対して、確実に復讐できればいいのだ。だから彼らは言うのだ。「誰でもよかった。」と。けっして、「父親が憎かったから」という本心は言わない。

なぜか? 言わなくても復讐が達成されているからである。そして、まだ、存在している父親が怖いからである。だから、かれらはけっして、「父親のせいで」とは言わないのだ。

そして、反省の色が見られないことが多いのも当たり前である。本心では「自分ではなく、父親が悪い。」と思っているからである。

では、罪を犯してしまった彼を更生させるためにはどうすればいいのか?

まずは、父親が、「自分に原因があった」と責任を認めることである。すると、彼の心は溶解し、「僕も悪かった」となるのが人間の自然の心理というものだ。だが、それが絶望的なのは、おそらく父親はこう言って、自らの責任を存在しないものとするだろうからである。「社会人としてしっかり責任をとれ、と言いたい。私も『何でだ』という思いだ」と。

p.s. 以上、ほとんどが想像力の産物です。けっして、鵜呑みにしないで下さい。犯罪の動機はケースバイケースであり、それを明らかにすることは手品の種を見破るようなものです。話の辻褄があうからといって、実際にそうかどうかは全くの別問題です。現実はこんなに単純ではありません。こういう分析よりも、たわいのない、そしてたまには真剣な親子の会話の時間を持ったりすることの方がとても重要で実効的だと思います。
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by asazuki508e | 2008-03-31 15:01 | Comments(2)

つぶろく

つぶろく。

エキサイトブログの機能のひとつとして、すでにご存知の方も多いと思う。ブログに貼った場合、こんな感じになる。
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正直、いまだにつぶろくの使い方、というより存在意義のようなものがよくわからない。とりあえず、記事の方でお堅い内容ばかり書いているので、くだけたことでもメモしておこうかと思っていたのだが、つぶろくのホームページ?の方でも晒されていることをすっかり忘れていた。
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私のつぶやきに対して、つぶやきが返ってきて、びっくりしてから気づいた。「そういえば、そんな機能もあったな。」と。 おそらく、お若い方からのつぶやきだろうと推測し、私としてはかなり無理をした、くだけた感じで、場?の雰囲気が壊れないようにうまく返信したつもりだったが、相手の人は気を悪くしなかっただろうか?

そういうわけで、ブログを見ている人以外の人に私のひとりごとを聞いてもらいたいとは思わないし、つぶやきの返信チェックをするのは骨が折れるので、つぶやきをブログに掲載することはやめることにした。ブログだけに公開する機能はないようですし。

まあ、なければないで問題はないんですけどね。
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by asazuki508e | 2008-03-31 00:32 | Comments(2)

「自己中心的」という言葉

自己中心的。

私の認識では、実にとらえどころのない言葉である。おそらく、この世に悪が存在すると錯覚を起こした人たちがこしらえた言葉なのだと思う。そういう意味では存在しているのだが、本質的には存在していない。

おそらく、価値観の違いによって、「自己中心的」という言葉の定義は異なっているのではないかと思っている。

(ある価値感による自己中心性)d0112463_17242188.gif自分のことについて、あれこれと話すこと。
周りよりも自分のことを優先すること。
家庭を含めた身近な人たちのことを大切にしないこと。

(別の価値観による自己中心性)
自分のことをさらけださないこと。
自分の能力をわきまえずに引き受けて、結果的にまわりに迷惑をかけること。
社会のことよりも、自分や家族のことを優先すること。







© ふわふわ。り


あなたはどちらだろうか? そして、上下の2つをよく見比べてほしい。「自己中心的」という言葉は、語る人の立ち位置によって、定義が正反対になる言葉なのである。

このように、「自己中心的」という言葉も、「正義」とか「悪」という言葉が存在しないように、実はこの世に実在しないものである。もし、みかけ上、ある人のことが自己中心的にみえているとすれば、それは単に上記のような価値観が自分と異なっていることを示しているに過ぎない。そして、人によって定義が異なっているのであるから、それはコミュニケーションには使えない言葉、少なくとも大勢の人の前では使えない言葉である。

だから、自分から見て自己中心的にみえる人に対しては、「もう少し自分のことをさらけ出して話してほしい。」とか「もう少し、家族のことを大切にしてほしい。」という言い方であれば、会話が成立するだろうが、「あなたは自己中心的だから、そういうところを直してほしい」と言っても、間違いなく会話にならない。なぜなら、自己中心的という言葉の定義が、あなたと正反対である可能性があるからだ。

このように考えていくと、価値観の違う人と会話を成立させることが如何に困難であるかが容易に想像されると思う。もし、日常生活においてそう感じていないとすれば、それはあなたが価値観のほとんど同じ人としか交流していないことを意味している。

そして、世の中を良くしていくためには、価値観の違う人との交流こそが重要である。そして、そういう交流であればあるほど、会話を成立させることが困難になっていくのである。そして、そういう会話の中に「悪」や「自己中心的」という言葉が出てきた瞬間、もはや意思の疎通は不可能になる。おそらく、お互いに対して相手のことをそう思っているのだから。

ゆえに政治が混乱しやすいのは政治家の努力不足や怠慢によるものばかりではない。あれは人間の姿そのものなのである。

しかし、また同時に、上の事例から、価値観が異なるような相手に対しては、どのように話していけばいいのかもわかるだろう。価値観が異なるような相手に対しては、概念的、絶対的にではなく、個別具体的に、そして相対的に話せばいいのである。そういう類の言葉は概ね、定義が同じだからである。
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by asazuki508e | 2008-03-30 17:43 | Comments(2)

何とか2ヶ月、毎日ブログを更新してみての感想

何とか2ヶ月、ブログの更新を毎日続けることができた。13日は意図的に空けてしまったが。

下書きの書き溜めはよそうと思っていたが、気がついたら100本以上書き溜めてしまった。ほとんどが中途半端でキーワードを走り書きしたものばかりだが・・・。

逆にもっと更新のペースを上げたほうがいいような気もしている。記事として言葉を吐き出さないと、何となくいつまでも頭の中にゴミのように残ってしまっているような気がするからだ。記事にしてしまったものは、言い方は悪いが、出してしまったウンコのようにスッキリ感がある。こういうのが、無意識として自分の中に定着したということなのだろう。

ちょっと困っているのは腰とか肩の凝りがひどくなってきたことだ。座る時間が増えた分、運動する量も増やした方がいいのかもしれない。

うん。散歩をしてからブログを書くことにしよう。そして、1日1本ルールは今から撤廃しよう。頭の中がちょっと便秘ぎみだから。



p.s. あっ、3月って、あと1日ある・・・。

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by asazuki508e | 2008-03-30 15:33 | Comments(0)

歳を取ると丸くなる?

「歳をとると人間が丸くなる」という。本当だろうか?

私は、人によって、丸くなっていく人と頑固になっていく人に二分されていくのではないかと推測している。

それを分けるものは何か? 私は、自分の心にウソをついているか否か、ではないかと思う。

私の認識では、自分の心にウソをつくと、頭の中にゴミのようなものが溜まっていく。それと同時に脳細胞がどんどんと失われ、必要のない記憶が自然消滅していくのではないかと思っている。

するとどういうことになるか? 強く記憶されたものだけが優先的に頭の中に残っていくことになる。そして、自分の心にウソをついてしまうと、それが記憶に強く残ってしまい、歳をとると、頭の中にゴミがたくさんたまったような状態になるのではないかと思っている。

一方で、自分の心にウソをついていない人は、そういうゴミが存在せず、かつ、歳をとるにつれて、不必要な記憶がなくなっていくのであるから、若い頃よりもむしろ頭の中が研ぎ澄まされていくのではないかと思っている。

そして、こういう人が「丸くなった人」なのではないかと思う。そして、こういうのを自由と呼ぶのではないかと思う。思うがままに行動すると勝手にいい方向に流れていくような精神状態、とてもいうのだろうか?

私は誰から教えられたわけでもなく、子どもの頃から直感的にこういうことを感じていて、生まれて40年近くたった今でも、その思いは変わらない。
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© Art-Flash 加工自由な壁紙と素材


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by asazuki508e | 2008-03-30 01:02 | Comments(0)

ブログを書くことの意味や価値について(その2)

3.ブログを書くことの意味や価値(その2)  - 交わる -

3.1 人との交わりは元気の素


おそらく、人気のあるブログのほとんどのタイプがこの分類に属するだろう。一言で言うと、「楽しいブログ」である。これは別にブログに限った話ではないが、世の中に技術や労働を与えたり、人生や人の心について真面目に探求することはもちろん大事だが、それだけでは、人は生きていけない。そこにはやはり、元気の素が必要である。生きていく上での元気の素は何か? 楽しむことである。そして、人にとっての究極の楽しみとは人と交わることである。これは当たり前のことなのだが、一応言語化しておく。そして、例を挙げて、ダメを押しておく。



で、もし、ゴルフを無人島で一人でやって楽しいだろうか? たぶん、全くつまらないと思う。そりゃあ、一時的には楽しいかもしれない。子どもがゲームに没頭するように。しかし、それは、いずれは人と楽しくゴルフができる、ゲームであれば、友達とゲームについて語り合うことができる、という前提あってのものだ。逆に言えば、ずっともくもくとゴルフの打ちっぱなし場でボールを打ち続けたり、ゲームをひたすらやり続けて、一生を終える、というようなことは(すごく非現実的な設定だが、それに近いことをする若者が出てきているので敢えて言語化しておく)、自ら楽しみを放棄しているに等しい。言い換えれば、彼らは楽しいということはどういうことかということが自覚できていない、教えられていない、周囲の大人から見捨てられているのである。

3.2 ブログは楽しむための要素を兼ね備えている

楽しいという感情は、人との交わりというのが必須のものだということだ。そして、ブログというのは、そういう要件を満たしている媒体であると思う。できればコメントのやりとりができる方がいいのだが、別にできなくても見てもらっていることがわかれば、それだけでも筆が走るというものだ。私は、コメントをしていただくのはもちろんうれしいが、アクセス解析のおかげで、コメントはなくとも「10人くらいの人に見てもらってるんだな。」ということがわかり、それだけでやる気が湧いてくる。この前は20人くらいだと思っていたのが数人かもしれない、ということで少々動揺したのだが。10人から20人くらいが、私としてはありがたい。それ以上だと逆に筆の運びが鈍くなったり、思い切ったことが書きにくくなるだろうから。

3.3 引きこもりの人はブログを開設して、記事をどんどん更新してほしい

最近気づいたことで残念に思うのは、おそらく、ネットをやっている人の中には引きこもりの状態の人も多いと思う。にもかかわらず、ブログの管理人には、社会的にある程度の身分というか、それなりの確固たる地位を築いた人ばかりが目立つ。私に言わせれば、そういう人たちは社会生活の中で十分元気をもらえているはずだ。かつての私がそうであったように。そして、引きこもりの人にとっては、ブログというのは格好のコミュニケーションツールになるはずだし、私はそう思っているから、こうやって拙い文章力ながらもブログを綴っている。こういう行い自身も生きることそのものだと思っているからだ。

もし、引きこもり状態の人がいたら、ブログを開設することをすすめる。そして、何でもいいから綴ってみてほしい。最初のうちは言葉が出てこないかもしれない。でも、それは最初のうちだけだ。慣れていないだけ。ゲームをしているなら、そのことを書けばいい。すでに知っているとは思うが、世の中にはさまざまな検索機能があって、興味のある人が自然ときみのブログに集まってくるはずだ。もし、集まってこなかったら、自分で検索してみて、そういうブログを見つけて、コメントしてみればいい。そのうち、気の合う人がみつかるはずだ。そうやっていくと、自分の中に元気が芽生えてくるのに気づくはずだ。それが世の中のほんとうのことのひとつだ。そして、その気持ちを忘れずに少しずつ育てていってほしい。そういう心を育てていけば、ひきこもりしていること自体が不快に感じてくるはずだ。そう、それが自発性というものだ。実はきみの心の中にすでにあるものだ。自発性は気合とか意思から生まれるものではなく、そうやって育てていくものなのだ。そして、それは実は誰でもできることなのだ。

3.4 楽しむブログ作りは私自身の目標

私自身のブログは、本音ベースのブログだと自認していて、リアルの私も正直、そのままだ、と言いたいところだが、実際の私は黙々とだまって働く、口より行動が先、のタイプだ。このブログでは、かなり無理をしている。しかし、思っていることや問題となっていること、相手のいいと思っているところなどを上手に言語化するというのは、とても大切なことだと仕事等を通じて痛感した。このまま、「男は黙って」タイプでは自分にとっても私とこれから接する人たちにとってもよくないことだと思っている。これからは、こういう楽しいブログをつくる人たちからいろいろなことを吸収し、勉強し、そして、楽しさを人に与えられるようになれればと思っている。

3.5 参考にしたいブログ

私の独断と偏見で、「きれいだなぁ~、楽しいなぁ~、おもしろいなぁ~」と感じるブログとして、
野鳥のお昼寝
くま夫婦 by中央ヤンボル
ATELIER-R
in a pillar of cloud
を挙げておく。
おもしろくて素敵なブログは、まだまだ、たくさんあると思う。
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by asazuki508e | 2008-03-29 00:22 | Comments(2)

不安の解消法

言語化することで、実は不安の多くは解消できる。

しかし、不安であるがゆえに、また、多くの人は言語化することにより、不安が明確に意識化されることを怖れ、そして、逆にそれらが言語化されまいとして、お酒で意識を朦朧とさせたり、ギャンブルや仕事、趣味に夢中になろうとすることで、意識の中から不安を遠ざけようとする。また、周囲の人や社会に対して悪態をつくことで、自分ではなく周囲が問題であると正当化しようとする。

実は、その不安を言語化するということが、不安を取り除く最良の方法なのである。言語化されれば、しっかりと意識化され、そしてそれはやがて無意識化される。それが、自分自身を受け入れるということである。

不安とは、言い換えると、「不快に対する無力感」のことである。不快ではあるが、自分の力ではどうすることもできない対象に対して、人は不安を覚えるのである。

ゆえに、不安への対処法は2つ。不快の原因を取り除くか、今の自分の力ではどうしようもないものに立ち向かっていき、それを克服するか、である。

多くの場合、不快の原因というのは外的なものであって、取り除くことが困難である場合が多い。たとえば、環境を変えるというのが、不快の原因を取り除く一つの方法である。しかし、この手段は最終的なものと捉えておいたほうがいい。なぜなら、不快の原因を直接的に取り除くという方法は、本人にとって根本的な解決にならないケースが多いからだ。たとえば、本人にいじめられやすい特質がある限り、環境を変えたとしても、またいじめられる可能性は高い。いじめという現象は、ある特定集団にだけ存在するのではなく、人間一般の特質のひとつであるからだ。

そして、若い人には特に必要だと思うのだが、今の自分の力ではどうすることもできない対象に対して立ち向かうことが、不安を解消するには根本的な解決策だ。そして、その第一歩が不安の対象を言語化するという行為だ。これは一種の葛藤である。不安に立ち向かうということは嫌なことだ。しかし、不安を解消するには、その嫌なところを必ず通る必要がある。それ以外の道はない。断言する。

ここのところで、多くの人は、言語化することを回避し、「悩んでいてもしょうがない。行動あるのみだ。」と言って、仕事や勉強、趣味に没頭することになる。私に言わせれば、これは単なる逃避だ。とはいっても、人間そんなに強くはできていない。たまには逃避も必要だろう。しかし、そればかりではやはりよくない。孤独になって、自らの不安に向き合う時間というのはやはり必要だ。d0112463_613275.gif
言語化すれば、実は自ずと解決策も見えてくる。それまで見えてこなかったのは、漠然と予感はされていても明確に意識化することが怖くて、考えようとしなかっただけのことだ。自分の力ではどうしようもないと感じるのは、単なる思い込みであって、必ずと言っていいほど解決策はある。ただ、その解決策の多くは困難で面倒でしんどくて・・・というだけの話だ。ただ、あとはそれをやるだけの話だ。そして、そういう行動になぜ移れないかといえば、自分の中でしっかりと言語化され、明確に意識化されていないからだ。

もし、私が今言ったようなことがピンとこないようであれば、例えば、「悩み方が中途半端だ」と言い換えてもいい。悩み方が中途半端だから、いつまでたっても問題点がはっきりとせず、ゆえに行動の意味や価値が明確とならず、その結果、行動のモチベーションがあがらず、行動に移せないのである。悩むこと(本当は考えることなのですが)自体がよくないのではなく、中途半端だからいつまでたっても前に進まないのである。2歩下がるから、3歩進めるということは生きていく中で多く経験することなのである。


© ふわふわ。り


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by asazuki508e | 2008-03-28 06:06 | Comments(0)

弱者を追い詰める予定調和

「予定調和」。

私の理解では、問題点を先読みして、先手を打っていくことで、問題を未然に防ぐことを予定調和という。

しかし、この考え方は、一歩間違えると弱者にとっての外堀を埋めてしまうことがあるので、その方策をたてる際には注意が必要である。

着目したほうがいいと思う注意点は、対策は弱者のためにあるのか、それとも管理側の責任逃れのためにあるのか、ということである。

現代社会において、弱者の首を真綿を締めるようにして存在する、最も手ごわい潜在的社会システムの一つとなってしまいかねないのが予定調和的対策である。考え方が予定調和的であると、巧妙に自らの責任を逃れつつ、かつ、他人を動かそうとしてしまいかねないので、常に反省的考察を同時にすすめていく必要がある。

その予定調和的対策は、弱者救済のためなのか、それとも、自己保身、責任逃れ、いい人に思われたいため、嫌われたくないためなのか? その動機であったり、意味や価値こそが大切なのである。

しかしながら、結果として表出してくる行動を見ただけでは、その動機、意味や価値を判断することは困難であることが多いのでやっかいなのである。

したがって、現場の人が、問題や弱者に対して、本気で対峙することなしには、本当の意味での問題の解決や弱者の救済には繋がらないのである。

そして、この予定調和、外堀を埋めるという社会メカニズムが、我々の心を真綿を締めるようにして苦しめているものの正体のひとつなのである。

たとえば、会社のいじめ対策。会社専属のカウンセラーを雇って、「必要な人は相談に行ってください。」と言う。こんな意味のない対策ってあるだろうか? そもそも、いじめられているような人はそういうことが苦手な人たちなのではないだろうか? 私は、こういうのはわかりやすく、会社組織の側の責任逃れの構図だと思う。実効性はないが、「我々はこういう対策を講じておりました(ので私たちは悪くありません)。」というふうな利用価値はあるだろうし、実際、そういう意図なのが見え見えである。

「では、どうすればいいのだ。」

現場の人それぞれが責任をとっていくこと。本気でぶつかっていくこと。それだけである。下手な防衛手段、予定調和的対策は、弱者をよりいっそう追い込むだけである。

外堀を埋めていく、こういう予定調和的現象は、現在、社会規模で急速に進行中であり、正直、私は辟易としている。すなわち、規則や法律、それに××法人や××財団が増える一方であるということだ。労働人口は減る一方であるのに、一体、こういった社会システムを誰が維持管理していくというのだ。
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© ZIG ZAG  


p.s. どうして、下記の記事を添付したのかについては、各自、考えてみてください。
<岡山突き落とし>少年の父、涙の謝罪「息子が許せない」 [ 03月26日 21時01分 ]
毎日新聞社
 岡山市のJR岡山駅で25日起きた突き落とし殺人事件で、容疑者の少年(18)=大阪府大東市=の父親(57)が26日、岡山市内で記者会見した。「事件前は変わった様子はなかった。被害者の方に申し訳ないです。息子が許せない。他人に迷惑をかけるくらいなら、自分を傷つけてくれれば良かった」と涙を流しながら謝罪した。

 父親によると、少年は父、母(56)と3人暮らし。会社員の兄(33)は独立しているという。「小学校、中学校といじめられてきた。犬も怖がる弱虫だった。中学卒業後、「一度だけ『復しゅうしたい』と話したが、『そんなことをするな』と言ったら納得した」という。高校生活は楽しそうだったという。

 24日夜、食事中に茨城県土浦市の8人殺傷事件を報じるニュース番組を見ながら、「こんな事するなよ」と話し掛けると「うん」と答えたという。

 少年は家庭の経済的な事情で大学進学をあきらめた。しかし、「自分でお金をためて、国立大に行きたい」と父に打ち明け、大阪市内のハローワークに通って事務系の仕事を探していた。犯行当日の25日朝は、テレビゲームをするなど普段と変わった様子はなかった。

 しかし、夜になっても帰宅せず、「友達も少なく、必ず持っている携帯電話を家に置いていった」ことを不審に思った父が、大阪府警四条畷署に捜索願を提出。26日朝のニュースで事件を知り、「自分の息子かもしれない」と思い、岡山西署に連絡したという。

 父親は「社会人としてしっかり責任をとれ、と言いたい。私も『何でだ』という思いだ」と話し、最後まで頭を下げ続けた。【石戸諭】

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by asazuki508e | 2008-03-27 00:33 | Comments(2)

じつは言っている本人の問題?

言語化している、その内容の多くは、概ね、自分自身の問題なのではないだろうか?

たとえば、「あなたは背が高くてかっこいいね。」と言うとき、言っている言葉自身は本当のことだろう。背が高いのは事実なのだろうから。しかし、ここで注意したいのは、その発言の動機の方である。褒め言葉だとイメージがつかみにくいとおもうので、悪口の方で説明しよう。

たとえば、「あの人は頭悪いな。」という人がいたとする。すると、私は大抵の場合、こう解釈する。「ああ、この人は普段、自分の頭がいいか悪いかを気にしているんだな。」と。なぜなら、頭の良し悪しを気にしていない人は、わざわざそんなことは気にならないからである。ただし、逆もあるので注意が必要である。本当に頭が悪くて(不誠実というような意味)だめな人がいて、周りが迷惑を被っているのにそれを放置してしまうのも問題だ。そういうとき変にそういう人を庇ったりする人がいる。要するに、何らかのコンプレックスを持っている人は、そのことについて正しく判断することができないということである。

ただし、こういうことに普段から気をつけて神経質になる必要はない。それだと、何も言えなくなってしまう。自分に都合よく解釈しておけばいいのではないかと思う。

例えば、あなたが何か傷つくようなことを他人から言われたとしよう。そういうときは、「ああ、この人はこういうことを普段気にしているのか。」と思っていればいい。それが大抵本当のことである。そういう言葉に対して、もし落ち込んでいるとしたら、それは「ないもの」に対して落ち込んでいるということである。こんな馬鹿らしいことがあるだろうか? そして、こういうことが、いじめの基本原理でもあると私は思っている。

いじめとは、強者が弱者をたたく構図ではなく、弱者になりそうな人が弱者をたたくという構図である。なぜなら、強者には弱者をたたく理由がないからであり、弱者になりそうな人にはその理由があるからである。弱者になりそうな人は、弱者から常に心理的に脅かされており、不安をかかえて生きているのである。そして、本当は、弱者になりそうな人自身の心の問題なのであるにもかかわらず、まだ、上記のような心のメカニズムについてよくわかっていない人は、その不安を弱者に対してぶつけてしまうのである。d0112463_157398.jpg
ここまでわかれば、いじめを緩和する(けっしてなくすのではない。心から不安を完全になくすのは非現実的なのだから。)にはどうすればいいのかは明らかだろう。弱者になりそうだという不安を和らげてあげればいいのである。ここから先は、ケースbyケースである。少なくとも「いじめ反対」というシュプレヒコールがいかに本末転倒であるかがわかるだろう。それはいじめのエネルギーを増大させるだけである。

・・・話が脱線してしまった。要するに、ここで私が言いたいのは、「悪口言われてもそんなに気にしなさんな。それは実は相手方の問題であることの方が多いんだから。」ということである。

ちなみに私はこのブログの中で、あらゆる対象に対する認識について言語化を行っている。ということは、私自身、ほんとうのことを普通の人よりもうまく捉えることができていないということの証左ではないか、と疑ってみることは十分に意味のあることなのである。



© ふわふわ。り

(p.s. 若い方へ) 悪口言われたときに「実はおまえの心の問題だ!」なんで言い返さないで下さいね。そういうのは「火に油を注ぐ」と言って、よくないことだから。上記で言っているようなことは自分の心を守るための護身術くらいに思っていればいいのではないでしょうか。
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by asazuki508e | 2008-03-26 02:03 | Comments(2)

エキサイトブログのアクセス解析は参考にしない

数日、UNFINISHEDの無料アクセスカウンターを使用して、エキサイトブログのアクセス解析の機能について検証してみたのだが、一言で言うと「何をカウントしているのかよくわからない。」というのが正直なところだ。

たとえば、今日のアクセス数はUNFINISHEDの方で「8」、エキサイトブログのアクセス解析(レポートの数値)では「7」であり、大小関係が数日前と逆転している。数日前はUNFINISHEDの方で「4」、エキサイトブログの方では「23」だった。

一方、UNFINISHEDとFC2のアクセス解析を別のブログの方で同時に機能させて、そのカウント数を比較しているのだが、こちらの方はぴったりと数値が一致している。

以上から、「エキサイトブログのアクセス解析は、UNFINISHEDやFC2のアクセス解析とは違う何かをカウントしている。」ものと推測される。

そんなわけで、そういうよくわからないものを判断材料とすることは思考を混乱させるだけだと思うので、これからはエキサイトブログでは、アクセス数のチェックは原則、しないことにしようと思う。

ただ、ここで注意してほしいのは、私がアクセス数をチェックするのは、真の値を知りたいのではなく、別のブログとの相対比較をしたいからなのであって、エキサイトブログのアクセスカウンターが正しいとか、正しくないとかいうことを言いたいわけではない。エキサイトブログのアクセス解析を使うと、別のブログのアクセス数との比較が難しいから、そういう意味で参考にしないと言っているだけである。

だから、エキサイトブログだけを使用しているのであれば、エキサイトブログのアクセス解析を使用していて問題ないのではないかと思う。

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by asazuki508e | 2008-03-25 17:43 | Comments(0)