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小保方氏の件しかり、野々村氏の件しかり。本質的な問題はなぜ彼らがあの地位に就いてしまったのか?

小保方氏や野々村氏を叩いていれば、マスコミは儲かるし、叩いている者にとっては優越感に浸れて気分はいいのだろうが、そんなことをしていても現状は何も変わらないどころか、悪くなる一方。

この件の本質的な問題は、彼らがなぜああいう立場に就いてしまったのかということではないだろうか?



私自身は根っからの理系頭であるのでよく分かるが、小保方氏はおそらく、まったく理系には向かない、典型的な文系頭の人ではないかと思う。少なくとも理系頭ではない。

以下の記事によると、中2の頃に作文の最優秀賞をとったらしい。


理系頭でこれはありえない。以下の記事にその作文の切り抜きがキャプチャされているが、「王様」、「夢」、「自由」など、おおよそ理系頭の人間にはまったく興味のないキーワードが並んでいる。



にもかかわらず、結果的に彼女は「理研」という、理系の最高峰の一つと言ってもいい機関に所属できてしまっている。




一方、野々村氏。政治家というのは、本来、体より口から先に生まれてきたようなタイプの人がなるべき職業で、多少、ずさんというかいい加減でもいいくらいのざっくばらんな性格で、むしろ、虚栄心が備わっていたり、見栄っ張りなくらいでちょうどいいくらいの人物が求められる。しかし、彼のこれまでの言動を観察していると、まるで逆である。


このブログの内容を見る限り、とても小心者というか、防衛的な人格が見て取れる。はっきり言って、最も政治家に向かないタイプだろう。





しかし、両者ともに、結果的に彼らにとって最も向かない職業に就いてしまった。


もちろん、一般の人でも、多少は向いていない仕事についてしまうことはあるだろうし、むしろ、自分にとってぴったりの職業に就けている人はごく一部だろうとは思う。しかし、最も向いていない職業に就いてしまうということはほとんどないのではないかと思う。なぜなら、普通、自分の不得意なことは面白くないと感じ、避けようとするのが普通だからだ。


また、もし仮に不得意なことに挑戦しようとした場合、周囲にたしなめる人の一人や二人、いるのが普通だ。そこで、多くの人は「あっ、やっぱり向いてないのかな?」と気づき、人によっては大学を途中でやめて、別の大学を受験しなおしたり、転職したり、人によってはしばらく悶々と引きこもってしまったりもする。しかし、いずれにしても、普通はおかしな方向へ進もうとする人を止めようとする人は必ず存在するものである。


一般的にいじめは悪いこととされているが、必ずしも悪いことばかりではない。おかしな方向へそのまま進んで、一生を台無しにするよりも、その時は多少苦しくても、周りからたしなめられ、いじめられ、やむなく進路変更し、その結果、平穏な日常を手に入れることができた人も多いことだろうと思う。





当然、小保方氏や野々村氏自身にも一定の責任はあるだろうが、おそらく、彼ら自身にその問題を解決する能力はない。なぜなら、そもそもそういった問題解決能力が彼らに備わっているとしたら、彼らはわざわざ、自分にとって最もふさわしくない職業に就くという選択はしなかっただろうからである。


むしろ、私が不思議に思うのは、これまで彼らに接触してきた人たちの、誰もが彼らに、その進路のおかしさをなぜ問い詰めなかったのか、無関心だったのか、ということ。そういった大きな世話もその後の彼らの人生のことを考えれば、意味や価値のあることだろうし、そういったことに比べれば、そのときに多少、彼らから嫌われたところで人生全体を通して眺めてみれば大した問題ではない。


たとえば、小保方氏は大学で自分を鍛え直すべく、体育会系のラクロス部で頑張っていたらしいが、全く体力がなくダメだったらしい。小学校、中学校、高校くらいまでは多少、苦手な部分の克服に努めることも大切だが、大学とはそもそも、自分の長所を伸ばし、世の中の役にたつレベルまで引き上げるような場所である。短所の部分を人並みのレベルに引き上げることに多くの時間を費やしているようでは、とても世の中の役にたつレベルには到達できない。


しかも、彼女は本来、文系頭であって、無機的な理屈をこねくり回す理系の仕事には本来、まったく向かないタイプである。理系的な職業には、ある一定の孤独に対する強さみたいなものが求められるが、彼女はむしろ、その逆のタイプのように見受けられる。


しかし、若いうちは特に、そういった自分の特質を客観的に捉えるのは難しい。そういうことができるのは、これまで多くの人と接してきて、仕事の向き・不向きをある程度把握できる指導教官であったり、また、そもそも大体の向き不向きはそんな専門性はなくても、一般の人でもおおむねわかる話だ。他人のことをあーだこーだ言うのは、自分自身を見つめ直し、分析するエネルギーの10分の1でできるし、そう難しいことではない。


しかし、彼らはそんな機会も逃してしまっている。私が疑問に思っているところはそこの部分だ。


私自身の場合で言えば、作文だったり、話すことであったりでけなされたことはあっても、褒められたことは一度もない。国語の先生に作文をけなされた時も、その時は頭にきたわけだが、今にして思えば、「じゃあ、自分は何が得意なんだろう?」と考えるきっかけを作ってくれたということでもあり、それがその後の進路決定での一つの指針にもなっていたのではないかと思う。別の言い方をすると、こういう体験一切なしに自分の適性を見極めるのは難しいのではないかと思う。




そんなわけで、この問題、彼らを責めるだけで解決するとは私にはとても思えないのである。


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by asazuki508e | 2016-01-31 12:11 | Comments(0)