英語を学ぶ動機
2011年 12月 05日
英語を学ぶ動機。
受験生の頃は、大学に通るための手段のひとつにしか過ぎなかった英語。
そして、残念ながら、私の多くの時間を奪ってきた英語。
やらないなら、やらない、と決めて、まったく接触しないほうがいいのが英語なのかもしれません。私の場合、中途半端に接し続けてきたので、結果的には最もまずかったような気がします。
なんでそうなったかというと、「英語に時間を捧げるだけの動機がなかったから」。これに尽きますね。巷の世の中に溢れている種々のテクニックなんか、どうでもいい話だと思います。
で、大学に通ることは、どこまでいっても動機には成り得ないんですよね。どういうことかというと、動機というのは頭の中での反芻を生み出します。この「頭で反芻するかしないか」というのが、身につくかつかないか、の分岐点なわけで、大学に通るための勉強などということは、「できるだけ頭で反芻したくないもの」の筆頭に掲げられるわけで、そんな目的で勉強したものなど、身につくはずもなく、ムダなわけです。
で、ここ最近に至り、生まれて初めて、英語を使わないといけないという動機が生まれました。
英語をマスターしたいのではなく、「WordPress が好きだ。その道具が英語」なわけです。
前後逆さま、自己矛盾なのかもしれませんが、WordPress というのは、私にとっては道具ではなくて、対象物なのですね。感覚的には。それで、WordPress と楽しくつきあっていく上で避けられないのが、英語なのですよね。
英語を頭の中で反芻しなければならない動機が生まれて初めて誕生したわけです。
これまでは、わざわざ英語を避けて避けて、WordPressとつきあってきましたが、もはや、英語を避けることの方が疲れてくるに至るという、思いもかけない状況となってきました。
やはり、行動の動機は「正の感情」に基づかなければならないのだな、と改めてつくづく思いました。
またまた、逆説的ですが、だから英語のことばかり考える、ということではないのですよね。
WordPress が好きで常に頭の中で反芻していて、そのまわりに英語が存在することをこれから許す、という感じ。避け続けるのにもう疲れました。
受験生の頃は、大学に通るための手段のひとつにしか過ぎなかった英語。
そして、残念ながら、私の多くの時間を奪ってきた英語。
やらないなら、やらない、と決めて、まったく接触しないほうがいいのが英語なのかもしれません。私の場合、中途半端に接し続けてきたので、結果的には最もまずかったような気がします。
なんでそうなったかというと、「英語に時間を捧げるだけの動機がなかったから」。これに尽きますね。巷の世の中に溢れている種々のテクニックなんか、どうでもいい話だと思います。
で、大学に通ることは、どこまでいっても動機には成り得ないんですよね。どういうことかというと、動機というのは頭の中での反芻を生み出します。この「頭で反芻するかしないか」というのが、身につくかつかないか、の分岐点なわけで、大学に通るための勉強などということは、「できるだけ頭で反芻したくないもの」の筆頭に掲げられるわけで、そんな目的で勉強したものなど、身につくはずもなく、ムダなわけです。
で、ここ最近に至り、生まれて初めて、英語を使わないといけないという動機が生まれました。
英語をマスターしたいのではなく、「WordPress が好きだ。その道具が英語」なわけです。
前後逆さま、自己矛盾なのかもしれませんが、WordPress というのは、私にとっては道具ではなくて、対象物なのですね。感覚的には。それで、WordPress と楽しくつきあっていく上で避けられないのが、英語なのですよね。
英語を頭の中で反芻しなければならない動機が生まれて初めて誕生したわけです。
これまでは、わざわざ英語を避けて避けて、WordPressとつきあってきましたが、もはや、英語を避けることの方が疲れてくるに至るという、思いもかけない状況となってきました。
やはり、行動の動機は「正の感情」に基づかなければならないのだな、と改めてつくづく思いました。
またまた、逆説的ですが、だから英語のことばかり考える、ということではないのですよね。
WordPress が好きで常に頭の中で反芻していて、そのまわりに英語が存在することをこれから許す、という感じ。避け続けるのにもう疲れました。
by asazuki508e
| 2011-12-05 09:15